お手元で眠っている作品はございませんか?
ご整理をしようと思いつつ、置いたままの相続品、どれくらいの価値があるのか気になっている絵画や骨董品、どのようなジャンルの作品でも無料査定を承っております。
お気軽にお問い合わせください。
< 強化買取作品 >
具体美術協会|GUTAI
吉原治良、白髪一雄、田中敦子、元永定正、嶋本昭三、村上三郎、吉田稔郎、前川 強、名坂有子、松谷武判、上前智祐、正延正俊、今中クミ子、小野田 實
この度、「脈々とGUTAI 吉原治良×美術太郎」と題しまして、アートフェア東京2020開催中止による代替展を開催いたします。具体美術(GUTAI)の創設者である吉原治良を軸に、後継者と期待される美術太郎をピックアップし、吉原治良の提唱した「具体美術(GUTAI)」の精神が色あせることなく、脈々と生き続けていることを表現します。
< 出展作家 >
吉原治良、美術太郎
会期:2020年4月7日 (火) ~ 5月23日 (土)
※政府による「緊急事態宣言」が発出されたため、中止とさせていただきます
営業時間:12:00 – 18:00 定休日:日月祝日
会場:鳩ノ森美術|gallery + art shop(アリガトビジュツ)2会場同時開催
出品作品|Exhibited Works
《 作品 1971 》
シルクスクリーン(22×27.5cm)ed.AP
price on request
《 いぢわる兎 2020 》
キャンバス・アクリル・転写・金箔(22.7×15.8cm)
sold
《 瑠璃紺釉花器 1973 》
セラミック(8×9cm)
¥200,000 + tax
ベルント・フリーベリ|Berndt FRIBERG(1899-1981)
1899年スウェーデン生まれ。1934年リサラーソンやリンドベリを輩出したダスタフスベリ製陶所に入所し、巨匠ヴィルヘルム・コーゲに師事。1941年自身の工房を設立。日本や中国、朝鮮の古陶磁から影響を受け、フォルムや釉薬を追及し続けた。フリーベリの作品は、釉薬や肌など女性的な美しさを感じさせる繊細で優美なものが多く、世界中の多くのコレクターから愛され続けています。1981年7月逝去。(メトロポリタン美術館ほか世界各国の美術館に収蔵。ミラノトリエンナーレにて1947年、1951年、1954年に金賞受賞。)
《 畫花赤繪扁壺 》
セラミック(21.5×10×8.5cm)共箱
sold
島岡 達三|SHIMAOKA Tatsuzo(1919-2007)
1819年東京生まれ。1941年東京工業大学窯業科を卒後後、益子に移住。1946年濱田庄司に師事し、“早く自分の個性あるものを…。”と言われ「縄文象嵌技法」という独自の美を生み出す。島岡の力強く美しい象嵌作品は国内外で高い評価を得て、1996年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。益子という土地で、国内外から陶芸を学ぶため訪れる者や職人と共に、民藝運動*の心と仕事を続けた。2007年12月逝去。
*民藝運動(1926-)
1926年「日本民藝美術館設立趣意書」を4人連盟(柳宗悦を中心に濱田庄司、河井寛次郎、富本憲吉)での発刊により開始した、日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美「用の美」を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとする日本独自の運動。21世紀の現在でも活動が続いている。
《 藍塩釉面取花瓶 》
セラミック(29×13cm)共箱
sold
1894年神奈川県生まれ。1913年東京高等工業学校(現東京工業大学)の窯業科に入学し、上級の河井寛次郎と親交を結ぶ。卒業後は河井と同じく京都市立陶磁器試験場に入所。1919年柳宗悦と我孫子の柳邸にバーナード・リーチを訪問した折に出会う。翌年リーチとともに渡英。セント・アイヴスで作陶生活を送る。帰国後(1924年)に京都の河井邸に滞在中、柳と河井を引き合わせる。同年、確かな生活に根差した製作の場を求め、栃木県の益子へ居を移し以後活動の拠点とした。濱田は、柳や河井とともに民藝運動*を推進した中心的存在であり、物心両面から民藝運動を支え、1961年柳の没後には「日本民藝館」館長に就任。濱田の作品は作陶の拠点であった益子の土と釉薬を用いた作品が多く、濱田が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、どれも力強く健康的であり、1955年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。1977年自らの仕事の参考とした蒐集品を展示する「濱田庄司記念益子参考館」を開館。1978年1月逝去。
*民藝運動(1926-)
1926年「日本民藝美術館設立趣意書」を4人連盟(柳宗悦を中心に濱田庄司、河井寛次郎、富本憲吉)での発刊により開始した、日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美「用の美」を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとする日本独自の運動。21世紀の現在でも活動が続いている。
《 グタイピナコテカ(フォンタナ, カポグロッシ展)ポスター 1964 》
シルクスクリーン(61×43cm)
来歴:吉原治良旧蔵
price on request
グタイピナコテカ|GUTAI PINACOTHECA(1962-1970)
1962年中之島(大阪市北区宗是町33)に吉原治良が開設した明治時代の土蔵を改修した展示施設で、「ピナコテカ」とは具体(GUTAI)の活動に大きく貢献したフランスの美術評論家ミシェル・タピエが命名した「絵画館や画廊」を意味する言葉。具体美術展や会員の個展、具体美術小品展、具体美術新人展などが定期的に開催されるなど、具体(GUTAI)の活動拠点であっただけでなく、フォンタナやカポグロッシ、サム・フランシスら海外作家の展覧会も行われた。また先端の美術動向を示す場として注目度も高く、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、イサム・ノグチなどの美術家や音楽家のジョン・ケージ、美術評論家のクレメント・グリーンバーグなど海外の著名な美術関係者とも活発な交流が行われた。1970年阪神高速道路出入口建設のため閉館。吉原は翌年《グタイミニピナコテカ》を開設し、活動を継続するとともに《新グタイピナコテカ》の建設を計画していたが、1972年2月の急死により実現することはなかった。
《 作品 1975 》
キャンバス・油彩(160.2×160.2cm)
※「馬場彬作品集(サトウ画廊刊)」画集掲載
price on request
1932年東京都生まれ。1955年東京芸術大学卒業。卒業後は美術団体には属さず、1955年サトウ画廊*のキュレーションを担当。また彼自身も戦後日本における抽象絵画の主要作家の一人として精力的に活動する。1960年シェル美術賞3等、翌年に1等受賞。1962年に吉仲太造や村上善男らと共に「集団アルファ」を結成。1964年現代美術の動向展、1967年第9回日本国際美術展、1970年現代美術フェスティヴァル、1977年モスクワ国際美術展に出展。1988年池田二十世紀美術館で個展など。馬場の作品は東京国立近代美術館ら多くの美術館や文化庁に所蔵され、グレーを基調とした色彩と有機的な形が調和するイメージは、現在もなお多くの人々を魅了し続けています。1989年秋田市にアトリエを移転。2000年逝去。
*サトウ画廊(1955-1981)
1955年サトウ画材社長である佐藤友太郎が馬場彬を顧問に迎え、銀座に開設。東京画廊・南画廊・タケミヤ画廊らと並んで、戦後日本の現代美術黎明期を代表する画廊の一つ。河原温や李禹煥、菅木志雄など多くの新進気鋭作家をいち早く紹介し、アートムーヴメント「反芸術」の震源地として1950-70年代の現代美術を牽引。また、美術評論の御三家(針生一郎・東野芳明・中原佑介)を擁し「サトウ画報」を定期発行し、現代美術の普及に尽力した。1981年佐藤の逝去に伴い閉廊。
《 作品 1962 》
紙・ミクストメディア(10×24cm)
price on request
名坂 千吉郎|NASAKA Senkichiro(1923-2014)
1923年大阪府生まれ。1950年関西総合美術展入選。1952年京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)日本画研究科卒業。40歳で洋画に転向した名坂は、1965年「具体美術協会」会員となり、1972年の解散まで中心メンバーとして活動する。初期はアンフォルメルから影響を受けた絵画作品を発表するも、後期はハードエッジやライトアート、キネティックアートなど具体後期を特徴づける環境芸術へ移行した。2014年逝去。
《 作品 1997 》
オフセットリトグラフ(35.9×25.7cm)ed.30
¥300,000 + tax
1955年東京都生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。1980年代初頭より、絵画を中心に写真やチラシ、雑誌の一部などをコラージュしたスクラップブックやインスタレーションなどの多彩な表現を展開。ボアダムスのEYE・都築響一など異分野のアーティストとのコラボレーションでも知られ、美術のみならず、音楽・デザイン・文学などジャンルの境界をこえて活躍。1988年愛媛県宇和島へ移住し、精力的に活動している。