カテゴリー別アーカイブ: 販売作品

嶋本昭三|SHIMAMOTO Shozo

《 作品 》

シルクスクリーン(61×43cm)ed.100

¥300,000 + tax

 

嶋本 昭三|SHIMAMOTO Shozo(1928-2013)

1928年大阪府生まれ。1947年吉原治良に師事。キャンバスの代わりに支持体とした新聞紙に穴を開けた前衛的な作品を吉原に称賛される。1950年関西学院大学卒業。1954年「具体美術協会」の結成に参加し、大砲を使って絵具をカンヴァスに向けて飛ばすパフォーマンスを披露。そこから当時の主要スタイルとなる、絵具を詰めたガラス瓶をキャンバスに置いた石に投げ付ける「投擲(とうてき)絵画」が誕生した。1957年具体誌に寄稿の「絵筆処刑論」にて、“絵具と絵筆は悲劇的関係にあり、絵筆による虚勢の彼方に絵具の本質的美を求める”と提唱。1975年アーティスト・ユニオン(AU)の結成に参加。1999年紺綬褒章受章。2013年1月逝去。

 

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草間彌生|KUSAMA Yayoi

《 靴 1985 》

シルクスクリーン(45.5×53cm)ed.100

※「フジテレビギャラリー」シール

sold

 

草間 彌生|KUSAMA Yayoi(1929-)

1929年長野県生まれ。幼少期から幻視・幻聴を体験し、網模様や水玉をモチーフにした絵画を制作し始める。様々なオブセッションを乗り越え、単一モチーフの強迫的な反復と増殖による自己消滅という救済を見出す。1957年の渡米後はより抽象度の高いネットペインティングやソフトスカラプチャー、インスタレーションやハプニングなど多様な展開を見せ、前衛芸術家としての地位を確立。1998年ニューヨーク近代美術館で開催された回顧展「Love Foever Yayoi Kusama 1958-1968」で再評価され、以降、世界各地の美術館で展覧会が開催される。近年ではテートモダンやポンピドゥーセンターでの大規模な回顧展が反響を呼び、中南米巡回ツアーとアジア巡回ツアーでの動員により、2014年に美術館動員最多記録を更新。2016年文化勲章受賞。2017年東京(新宿)に草間彌生美術館が開館。現在も精力的に活動を続け、次々に新作を発表し続けている。

 

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ベルント・フリーベリ|Berndt FRIBERG

《 瑠璃紺釉花器 1973 》

セラミック(8×9cm)

¥200,000 + tax

 

ベルント・フリーベリ|Berndt FRIBERG(1899-1981)

1899年スウェーデン生まれ。1934年リサラーソンやリンドベリを輩出したダスタフスベリ製陶所に入所し、巨匠ヴィルヘルム・コーゲに師事。1941年自身の工房を設立。日本や中国、朝鮮の古陶磁から影響を受け、フォルムや釉薬を追及し続けた。フリーベリの作品は、釉薬や肌など女性的な美しさを感じさせる繊細で優美なものが多く、世界中の多くのコレクターから愛され続けています。1981年7月逝去。(メトロポリタン美術館ほか世界各国の美術館に収蔵。ミラノトリエンナーレにて1947年、1951年、1954年に金賞受賞。)

 

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島岡達三|SHIMAOKA Tatsuzo

《 畫花赤繪扁壺 》

セラミック(21.5×10×8.5cm)共箱

sold

 

島岡 達三|SHIMAOKA Tatsuzo(1919-2007)

1819年東京生まれ。1941年東京工業大学窯業科を卒後後、益子に移住。1946年濱田庄司に師事し、“早く自分の個性あるものを…。”と言われ「縄文象嵌技法」という独自の美を生み出す。島岡の力強く美しい象嵌作品は国内外で高い評価を得て、1996年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。益子という土地で、国内外から陶芸を学ぶため訪れる者や職人と共に、民藝運動*の心と仕事を続けた。2007年12月逝去。

 

*民藝運動(1926-)

1926年「日本民藝美術館設立趣意書」を4人連盟(柳宗悦を中心に濱田庄司、河井寛次郎、富本憲吉)での発刊により開始した、日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美「用の美」を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとする日本独自の運動。21世紀の現在でも活動が続いている。

 

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濱田庄司|HAMADA Shoji

《 藍塩釉面取花瓶 》

セラミック(29×13cm)共箱

sold

 

濱田 庄司|HAMADA Shoji(1894-1978)

1894年神奈川県生まれ。1913年東京高等工業学校(現東京工業大学)の窯業科に入学し、上級の河井寛次郎と親交を結ぶ。卒業後は河井と同じく京都市立陶磁器試験場に入所。1919年柳宗悦と我孫子の柳邸にバーナード・リーチを訪問した折に出会う。翌年リーチとともに渡英。セント・アイヴスで作陶生活を送る。帰国後(1924年)に京都の河井邸に滞在中、柳と河井を引き合わせる。同年、確かな生活に根差した製作の場を求め、栃木県の益子へ居を移し以後活動の拠点とした。濱田は、柳や河井とともに民藝運動*を推進した中心的存在であり、物心両面から民藝運動を支え、1961年柳の没後には「日本民藝館」館長に就任。濱田の作品は作陶の拠点であった益子の土と釉薬を用いた作品が多く、濱田が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、どれも力強く健康的であり、1955年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。1977年自らの仕事の参考とした蒐集品を展示する「濱田庄司記念益子参考館」を開館。1978年1月逝去。

 

*民藝運動(1926-)

1926年「日本民藝美術館設立趣意書」を4人連盟(柳宗悦を中心に濱田庄司、河井寛次郎、富本憲吉)での発刊により開始した、日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美「用の美」を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとする日本独自の運動。21世紀の現在でも活動が続いている。

 

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グタイピナコテカ ポスター|GUTAI PINACOTHECA Poster

《 グタイピナコテカ(フォンタナ, カポグロッシ展)ポスター 1964 》

シルクスクリーン(61×43cm)

来歴:吉原治良旧蔵

price  on request

 

グタイピナコテカ|GUTAI PINACOTHECA(1962-1970)

1962年中之島(大阪市北区宗是町33)に吉原治良が開設した明治時代の土蔵を改修した展示施設で、「ピナコテカ」とは具体(GUTAI)の活動に大きく貢献したフランスの美術評論家ミシェル・タピエが命名した「絵画館や画廊」を意味する言葉。具体美術展や会員の個展、具体美術小品展、具体美術新人展などが定期的に開催されるなど、具体(GUTAI)の活動拠点であっただけでなく、フォンタナやカポグロッシ、サム・フランシスら海外作家の展覧会も行われた。また先端の美術動向を示す場として注目度も高く、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、イサム・ノグチなどの美術家や音楽家のジョン・ケージ、美術評論家のクレメント・グリーンバーグなど海外の著名な美術関係者とも活発な交流が行われた。1970年阪神高速道路出入口建設のため閉館。吉原は翌年《グタイミニピナコテカ》を開設し、活動を継続するとともに《新グタイピナコテカ》の建設を計画していたが、1972年2月の急死により実現することはなかった。

 

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馬場彬|BABA Akira

《 作品 1975 》

キャンバス・油彩(160.2×160.2cm)

※「馬場彬作品集(サトウ画廊刊)」画集掲載

price on request

 

馬場 彬|BABA Akira(1932-2000)

1932年東京都生まれ。1955年東京芸術大学卒業。卒業後は美術団体には属さず、1955年サトウ画廊*のキュレーションを担当。また彼自身も戦後日本における抽象絵画の主要作家の一人として精力的に活動する。1960年シェル美術賞3等、翌年に1等受賞。1962年に吉仲太造や村上善男らと共に「集団アルファ」を結成。1964年現代美術の動向展、1967年第9回日本国際美術展、1970年現代美術フェスティヴァル、1977年モスクワ国際美術展に出展。1988年池田二十世紀美術館で個展など。馬場の作品は東京国立近代美術館ら多くの美術館や文化庁に所蔵され、グレーを基調とした色彩と有機的な形が調和するイメージは、現在もなお多くの人々を魅了し続けています。1989年秋田市にアトリエを移転。2000年逝去。

 

*サトウ画廊(1955-1981)
1955年サトウ画材社長である佐藤友太郎が馬場彬を顧問に迎え、銀座に開設。東京画廊・南画廊・タケミヤ画廊らと並んで、戦後日本の現代美術黎明期を代表する画廊の一つ。河原温や李禹煥、菅木志雄など多くの新進気鋭作家をいち早く紹介し、アートムーヴメント「反芸術」の震源地として1950-70年代の現代美術を牽引。また、美術評論の御三家(針生一郎・東野芳明・中原佑介)を擁し「サトウ画報」を定期発行し、現代美術の普及に尽力した。1981年佐藤の逝去に伴い閉廊。

 

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名坂千吉郎|NASAKA Senkichiro

《 作品 1962 》

紙・ミクストメディア(10×24cm)

price on request

 

名坂 千吉郎|NASAKA Senkichiro(1923-2014)

1923年大阪府生まれ。1950年関西総合美術展入選。1952年京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)日本画研究科卒業。40歳で洋画に転向した名坂は、1965年「具体美術協会」会員となり、1972年の解散まで中心メンバーとして活動する。初期はアンフォルメルから影響を受けた絵画作品を発表するも、後期はハードエッジやライトアート、キネティックアートなど具体後期を特徴づける環境芸術へ移行した。2014年逝去。

 

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大竹伸朗|OHTAKE Shinro

《 作品 1997 》

オフセットリトグラフ(35.9×25.7cm)ed.30

¥300,000 + tax

 

大竹 伸朗|OHTAKE Shinro(1955-)

1955年東京都生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。1980年代初頭より、絵画を中心に写真やチラシ、雑誌の一部などをコラージュしたスクラップブックやインスタレーションなどの多彩な表現を展開。ボアダムスのEYE・都築響一など異分野のアーティストとのコラボレーションでも知られ、美術のみならず、音楽・デザイン・文学などジャンルの境界をこえて活躍。1988年愛媛県宇和島へ移住し、精力的に活動している。

 

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聽濤襄治|KIKUNAMI Joji

《 作品 ca.1968 》

アクリル板・鏡(20×20cm)

※来歴:藤野忠利旧蔵→西湘画廊→ギャラリー川船

price on request

 

聽濤 襄治|KIKUNAMI Joji(1923-2008)
1942年兵庫県生まれ。1943年小磯良平に師事。1957年行動美術協会会友となる。1965年ニュージオメトリックアートグループの結成に参加。行動美術展において吉原治良の目に留まり、1966年「具体美術協会」会員となる。1967年空間から環境へ展に松田豐・今井祝雄と共に出展。1970年日本万国博覧会みどり館での具体グループ展示に出展。最後の具体美術展である第21回展まで連続出展するなど具体美術展のみならず、環境芸術に関連した多くの展覧会に出展する。化学・物理学の世界に人智を越えた神秘的な美を見出し、工業的生産物を精神の高みにまで引き上げることを高度経済成長期における芸術家の使命として、オプ・アート(錯視や視覚の原理を利用した作品)に取り組んだ。2008年逝去。

 

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